
M&Aノウハウ
最終更新日: 2026/9/18

SaaS企業のバリュエーションでは、売上高やARR(年間経常収益)に倍率を掛ける方法が使われます。ただし、「SaaS企業なら売上の何倍で売れる」と一律に判断することはできません。成長率、既存顧客からの収益維持、収益性、事業規模などによって評価は変わります。
また、PSRで求める株式価値と、EV/ARR倍率で求める事業価値は異なります。株式の売却価格を検討する際は、使用する倍率の定義を確認し、必要に応じて現預金や借入金などを調整することが大切です。
本記事では、PSR・ARRマルチプルの使い分け、2026年の参考データ、売却価格の計算例、企業価値を左右する指標と売却前の準備を解説します。
※本記事の市場データは2026年9月18日時点で確認した公開資料に基づきます。計算例は説明用の仮定であり、個別企業の売却価格を示すものではありません。
バリュエーションとは、企業や事業の価値を算定することです。M&Aでは、売却条件を検討し、買い手と交渉するための根拠になります。
SaaSは、クラウド経由でソフトウェアを提供するサービスです。月額・年額契約などによる継続収益が事業の基盤となるため、現在の利益に加え、契約がどれだけ続き、収益がどの程度伸びるかを評価します。
純資産や過去の利益だけを基準にすると、こうした特徴を十分に捉えられない場合があります。一方で、成長が落ち着き利益が安定した企業では、利益やキャッシュフローによる評価も重要です。事業の段階に応じて、次の方法を使い分けます。
指標・方法 | 基本的な計算 | 評価で確認する点 |
|---|---|---|
PSR | 株式時価総額÷年間売上高 | 株式価値を基準に比較する。売上高の対象期間をそろえる |
EV/売上高 | 事業価値(EV)÷売上高 | 現預金・負債などを考慮した比較。実績と予想を区別する |
EV/ARR | 事業価値(EV)÷ARR | 継続収益を基準に比較する。ARRの算定方法をそろえる |
EV/EBITDA | 事業価値(EV)÷EBITDA | 利益が安定した企業で併用する。赤字では使いにくい |
DCF法 | 将来のフリーキャッシュフローを現在価値に割り引く | 成長投資や将来の収益性を反映する。計画の根拠を検証する |
本記事では、EVを「事業価値」、株主に帰属する価値を「株式価値」として区別します。EBITDAは利払い・税金・減価償却の影響を除いた利益指標で、一般的には営業利益に減価償却費などを加えて捉えます。
PSR(株価売上高倍率)は、株式時価総額を年間売上高で割った倍率です。
PSR=株式時価総額÷年間売上高
例えば、株式時価総額が20億円、年間売上高が5億円なら、PSRは4倍です。赤字企業でも売上高があれば算出できますが、PSRだけでは収益性や借入負担を十分に判断できません。
未上場企業の評価に比較企業のPSRを用いる際は、規模や成長率だけでなく、財務構成の違いも検討します。PSRを売上高に掛けて求めるのは株式価値の参考額であり、その後にEVから株式価値への調整を重ねるものではありません。
ARRは、ある時点の継続収益を年換算した指標です。固定の月額課金を中心とする場合、月次経常収益であるMRRを用いて、一般に次のように計算します。
ARR=MRR×12カ月
月額換算した継続収益が1,000万円なら、ARRは1億2,000万円です。年払い契約は月額に換算し、初期設定費用や単発の受託開発売上などは分けて管理します。ARRは過去1年間の会計上の売上高でも、今後1年間の売上保証額でもありません。
従量課金などで利用額が変動する場合は、どの期間の実績を年換算したか、最低利用額と変動額をどう扱ったかを明確にする必要があります。
事業価値を基準とするEV/ARR倍率を使う場合、計算式は次のとおりです。
事業価値(EV)=ARR×EV/ARR倍率
ただし、「ARRマルチプル」という名称でも、分子が株式価値なのかEVなのかは資料によって異なります。名称だけで判断せず、計算式を確認しましょう。
評価倍率を比較するときは、①株式価値かEVか、②売上高かARRか、③実績か予想か、④基準日がいつかを確認します。
例えば、SaaS Capital Indexは、株式時価総額を直近四半期の売上高の年換算額で割った指標で、現金・負債の調整は行いません。そのため、EV/売上高倍率やEV/ARR倍率と同じものとして扱うことはできません。また、契約情報から算定したARRとも区別が必要です。
Software Equity Group(SEG)の2026年第2四半期レポートによると、同社が追跡する上場B2Bソフトウェア企業の指数では、EV/直近12カ月売上高倍率の中央値は3.2倍でした。
確認項目 | 内容 |
|---|---|
出典 | SEGの2026年第2四半期レポート |
対象 | 上場B2Bソフトウェア企業106社の指数 |
データ時点 | 2026年第2四半期 |
倍率の定義 | EV÷直近12カ月売上高(TTM Revenue) |
統計値 | 中央値3.2倍 |
これは市場環境を把握するための参考値であり、日本の未上場SaaS企業の成約倍率を直接示すものではありません。また、分母が直近12カ月売上高であるため、この3.2倍を定義の異なるARRにそのまま掛けることは適切ではありません。
同じSaaS企業でも、成長率や顧客の継続利用、利益率、事業規模は異なります。市場平均や中央値を確認した後に、自社と近い企業・取引を選び、違いを検討する必要があります。
SaaS Capitalの2026年版評価資料でも、市場環境、ARR成長率、NRRが評価の主要な要素として挙げられています。
上場企業の株価に基づく倍率、M&Aの成約倍率、資金調達時の評価額も区別しましょう。株式の権利内容、取得する持分、経営権の有無など、取引の前提が異なるためです。
月額課金を中心とするSaaS企業について、次の条件で試算します。
項目 | 仮定 |
|---|---|
MRR | 1,000万円 |
ARR | 1億2,000万円 |
EV/ARR倍率 | 3倍・4倍・5倍 |
加算対象の余剰現預金 | 3,000万円 |
有利子負債 | 5,000万円 |
この3〜5倍は計算方法を説明するための仮定です。市場の相場や、個別企業への推奨倍率を示していません。
EV/ARR倍率を4倍と仮定すると、事業価値は「1億2,000万円×4倍=4億8,000万円」です。
株式を100%譲渡する場合の株式価値を、次の簡略式で求めます。
株式価値=事業価値+余剰現預金-有利子負債
4倍のケースでは、「4億8,000万円+3,000万円-5,000万円=4億6,000万円」となります。
仮定したEV/ARR倍率 | 事業価値 | 株式価値の参考額 |
|---|---|---|
3倍 | 3億6,000万円 | 3億4,000万円 |
4倍 | 4億8,000万円 | 4億6,000万円 |
5倍 | 6億円 | 5億8,000万円 |
ここでは、事業運営に必要な資金とは別に、加算できる余剰現預金があると仮定しています。実務では非事業用資産、負債に準じる項目、運転資本なども確認し、取引条件に応じて調整します。
算定した株式価値は交渉の参考であり、その金額で成約することが保証されるわけではありません。買い手との相乗効果、デューデリジェンスの結果、引継ぎ条件、支払時期なども価格や条件に影響します。
売却後の業績に応じて追加対価が支払われるアーンアウトがある場合は、確定対価と条件付き対価を分けて比較します。また、株式価値は税金や仲介手数料を控除した後の手取り額ではありません。
事業譲渡では、引き継ぐ資産・負債・契約の範囲が異なるため、上記の株式譲渡の計算をそのまま使わず、対象事業に合わせて評価します。一般的な算定方法は、事業譲渡・株式譲渡の価格算定方法でも解説しています。
自社のSaaS事業の評価について相談したい方へ
ARRや売上高だけでは、自社に適した倍率は判断できません。シェアモルM&Aでは、SaaS企業の売却経験を踏まえ、企業価値やM&Aに関する無料相談を承っています。
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ARR・MRRは、継続収益の規模と推移を把握するための指標です。成長率を見る際は、増加が新規契約、既存顧客の追加利用、値上げのどれによるものかを分けます。
例えば、短期の値引きによって契約が増えている場合は、通常価格に戻った後も継続されるかを確認します。直近の数値だけでなく、月次推移と増減理由を説明できる状態が大切です。
NRRは、ある時点の既存顧客群からの収益が、一定期間後にどれだけ維持・拡大したかを見る指標です。対象期間中に獲得した新規顧客の収益は含めません。
NRR=(期首の既存顧客収益+追加利用・値上げによる増収-減額・解約による減収)÷期首の既存顧客収益×100
既存顧客の月額収益が1,000万円から1,100万円になった場合、同じ顧客群で比較したNRRは110%です。ただし、追加利用の増収が一部顧客の解約を補っていることもあるため、NRRだけで顧客維持を判断しないようにします。
解約率は、顧客数ベースと収益額ベースを区別します。また、月次と年次では数値の意味が異なるため、比較期間と算定方法をそろえる必要があります。
CACは顧客1社を獲得するための費用、LTVは顧客との取引期間を通じて得られる価値を表します。収益性の評価では、売上だけでなく粗利を踏まえてLTVを考えることが重要です。
CACには広告費だけでなく営業・マーケティングの人件費なども含め、対象範囲を明確にします。獲得費用を継続利用による粗利で回収するまでの期間も確認しましょう。
解約実績が少ない創業初期の企業では、LTVの推計が過大になる場合があります。計算結果に加え、実際の顧客群ごとの継続率や粗利の推移を示すと、前提を検証しやすくなります。
粗利率は、売上高から売上原価を差し引いた粗利益が売上高に占める割合です。
粗利率=(売上高-売上原価)÷売上高×100
企業間で比較する際は、クラウド利用料、外部サービス費、運用・サポート費などをどこまで原価に含めているかを確認します。会計処理の違いによって、見かけの粗利率が変わるためです。
さらに、顧客獲得や開発に必要な支出を踏まえ、成長を維持しながらどの程度の資金を生み出せるかを検討します。会計上の利益と現金の増減は一致するとは限りません。
一部の顧客に売上が集中している場合、その顧客の解約が事業全体に与える影響を確認します。契約期間、更新条件、値上げの可否、株主変更時の同意条件なども整理しておきましょう。
また、経営者や特定の開発者に業務が集中していると、売却後の運営に不確実性が残ります。ソースコードの権利関係、開発・運用手順、障害対応、セキュリティ管理についても、引継ぎ可能な状態にしておくことが大切です。
AIの影響は、機能を搭載しているかだけで判断できません。自社の機能が代替される可能性、独自データの価値、顧客の業務にどれだけ組み込まれているかを検討します。
SEGの2026年第2四半期レポートも、買い手が独自データ、業務への定着、AI戦略などを重視する傾向を示しています。出典:SEGの市場レポート
AI機能を提供する場合は、利用拡大に伴う外部API費用や計算資源の費用が粗利に与える影響も整理しましょう。機能の導入実績だけでなく、顧客継続や追加収益につながっているかを説明することが重要です。
売上高やARRに基づく評価は分かりやすい一方、利益や投資負担を直接表しません。利益が安定している企業ではEV/EBITDA、将来の事業計画を検証する場合はDCF法なども併用し、結果に差が出る理由を確認します。
同じARRでも、受託開発への依存度や保守負担、顧客獲得コストが異なれば、将来の収益性も変わります。SaaS以外の売上が大きい場合は、事業別の収益構造を分けて検討しましょう。
倍率は市場環境によって変動します。過去の取引を参考にする場合は、成約時点、事業規模、成長率、取引条件を確認します。
また、平均値と中央値、上場企業と未上場企業、実績売上と予想売上を混ぜないようにします。比較対象が少ない場合は、一つの数値を精密な相場として扱わず、複数の前提で評価を検討します。
提示価格が高くても、条件付きの支払いが大きい場合や、長期間の経営関与が求められる場合があります。売却価格だけでなく、支払条件、経営者の引継ぎ期間、従業員の処遇、売却後に負う責任の範囲を含めて判断しましょう。
企業価値を検討する際は、財務情報と事業指標をつなげて説明できるようにします。
準備する資料 | 確認する内容 |
|---|---|
直近2〜3期の決算書・直近の月次試算表 | 売上・利益・資金繰りの推移 |
月次のMRR・ARR一覧 | 集計方法、継続収益と単発売上の区分 |
顧客別の売上・契約一覧 | 顧客集中度、契約期間、更新条件 |
解約・減額・追加契約の推移 | NRR、解約率、収益の増減理由 |
営業・マーケティング費用 | CAC、費用回収期間 |
現預金・借入金・その他の債務の一覧 | 株式価値への調整項目 |
事業計画・開発体制・権利関係の資料 | 将来の収益性、引継ぎの実現性 |
MRR・ARRと会計上の売上高に差がある場合は、年払い、売上計上時期、単発売上などの理由を整理します。指標を大きく見せることより、算定根拠を第三者が確認できることが重要です。
売却に向けた改善では、解約理由の把握、導入支援、利用定着、価格体系の見直しなどに取り組みます。短期的な値引きで契約数を増やすだけでなく、顧客が継続して価値を感じられる状態を目指しましょう。
機能追加や料金改定の効果は、継続率、追加利用、粗利の変化で確認します。開発・営業・運用の属人化を減らし、売却後も事業を継続できる体制を整えることも大切です。

SaaS企業の売却価格を検討するには、PSRやARRマルチプルの意味を理解し、自社の成長率、継続収益、収益性、契約条件に合った評価を行う必要があります。事業価値と株式価値を区別し、現預金・借入金や取引条件も確認しましょう。
シェアモルM&A代表の齋藤康輔は、マッチングッド株式会社を共同設立し、約12年間の経営を経て、2019年1月に株式会社じげんへの株式譲渡を経験しています。じげんの公式発表でも、2019年1月4日にマッチングッドの全株式を取得したことが公表されています。
シェアモルM&Aでは、この売却経験を踏まえ、SaaS企業の企業価値やM&Aに関するご相談を承っています。「自社の価値を把握したい」「売却に向けて何を準備すべきか知りたい」とお考えの方は、お気軽にご相談ください。
最終更新日: 2026/9/18
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齋藤 康輔シェアモル株式会社 代表取締役
東京大学教養学部基礎科学科在学中、半導体(シリコン)のシミュレーションを専攻する傍ら、 後に上場する株式会社ムービン・ストラテジック・キャリアにてインターンとして勤務。
在学中に人材会社向け業務システムを開発し、大学卒業後は同社初の新卒社員として入社。
2007年3月に共同出資でマッチングッド株式会社を設立し、同システムを「マッチングッド」として販売開始。
12年の経営を経て、2019年1月に東証プライム上場企業の株式会社じげんに株式譲渡。
2019年9月、売却資金を元手にシェアモル株式会社を設立。
自身のM&A経験を通じて、買い手と売り手の間にある情報の非対称性や、M&A仲介会社が提供する付加価値に課題を感じ、 自身が心から依頼したいと思える、付加価値の高いM&A仲介サービスを目指して、IT・AI技術をフル活用したM&A仲介事業「シェアモルM&A」を展開中。